昭和40年03月22日 夜御理解
椛目に御神縁を頂いて、おかげを頂いていく人達。おかげを頂く事によってある程度の神様を信ずる事が出来るようになる。成る程いよいよの時神様でなからなでけんなぁとか、神様お願いすればこういうおかげも下さるんだなぁと。というように神様を、いわゆる、うたぐ、疑ったり、そのう、あるやらないやら分からなかった人達がです、成る程神様ってあるんだなぁ、ござるんだなぁ、神様の働きってあるもんだなぁという事を、おかげによって皆さんが、このう、大認する事ができる。
それであの御神意を伺いさせて頂いたり、お取次ぎ頂いてお願いしたりして、おかげを頂く事によって、神様段々深く、こう分からせて頂くのですけれども。それだけではね、今朝から頂きます神様の、思いの広さ思いの深さ。または自分の心の上にそうした深い広い信心を頂くという事は出来ん。それだけでは。ね。
今日、ブラジルにおいでられておる、あの竹内先生のおじさんにあたられます、ですけれども、手紙が来ております。(ぶようかじなり?)という方。実業家なんですね。その方が、内地に今度帰っておられる間に、ある事情で、まぁ、あちらに帰られなくなるような事になった。それをここにお伺いをされ、御神意を頂かれて神様の、教えて下さった通りに、もうその、ぎりぎりに帰る事が出来た。
大変広大なおかげを頂かれた。もう本当にここにそうですね、まぁ数にして5,6回でしょうか。お参りなったのは。それでも何かしらんけれども、このん、神様の働きというものを非常にこう感じられるようになった。一事が万事に無心を頂いてからと。今度も、後で大変な大きな事業をなさるのについて、先生の御意思を書いた、先生の、神様にお伺いをして下さった御神意一つで、この事業に取り組むまたはいけないと仰るなら、もう即刻これを止めても良いというようなお手紙が来てるんです、ね。
これなんかやはりその、御取次の御徳によってです、神様を分かって、愈々これは人間の浅い知恵やら力ではいけんなぁとか。神様のおかげ頂かなければいけんという事をまぁ確認された。これも昨日手紙が来た。これは、山口県の滝部の教会。中村先生から来てると。御普請があったけれどもその借金の為に大変難儀をしておる。これ以上は総代達に無理は言われないというような状態になって大変困っておられた。師匠の伝来のものがあるから、それを手放す為に随分、活動してもらったけれどもそれが売れない。
そこで、こちらにお話を頂いてからお参りをされて、本当にもう私共、主人がな、先生が亡くなられて奥さんが後を大きなその教会らしいけれども、後を継いでいかれるのに、今迄親教会はあるけれども私の信心の支えとか、相談相手になって下さるという事が出来ないと言う。もう本当に初めて三代様がおられる時には、ちょいちょいお伺いさせて頂いてから事を決めておったんですけ、ですけれども。
三代様がなき、この方というものは誰にどう相談申し上げたら良いやら分からんところに、椛目が出来た事を大変有難いと思いますと言うてから、一晩でもその時帰られたんですけど。それから間もなく、土地の事が、あー、解決のおかげを頂いたと。それが売買のおかげを頂いたから、おかげで借金払いする事が出来るというお礼の手紙が来た。もう一つは、やっぱ、同じように、これは、あー富永先生からの、手紙である。それは日奈久教会の先生ですねぇ。と、熊本県の。
この頃から丁度い、もう一週間位になりましょうか。お見えられてから。私にようやく、椛目と体の上で行動する事ができるようになりましたと、本当に有難いと思いますと。名実共に、身体、心と共に交流のおかげを頂いて、椛目の御ヒレイを、に浴したいと言うような事をお礼を申してきておられます。というのはこちらに見えて私が丁度さ、風邪の盛んな時だったもんですから、風邪を頂いて帰られたっていうわけです。もう帰って早速二、三日寝付いたという事が書いてあります。
その事をまぁ身体でこう、身体で交流したという風にまぁ頂いておられる。まぁこの昨日今日の、あの手紙を見せて頂きましてもです。椛目に御縁を頂きますと初めてお参りさせて頂いても、何とはなしに一つ神様を確信付ける事が出来る。人間心ではないやっぱり神心でいかにゃいけんという事。御神意を永久にすればおかげになるという様な事。人間の浅い力知恵ではいけんと言う様な事が分かる、その程度の事は椛目に通われる皆さん全部が私は、分かっておいでられるじゃないかとこう思うんですけれどもね。
それではそれだけでしょうが。いよいよ神様のね。いわば思いの深さとか広さとか。または自分自身の心の中に、深い広いおかげを頂く事は出来んね。今朝から私が皆さんに御理解説かせて頂きましたように菊正の、菊正宗の箱の上の方菊正宗と書いてある所が金箔である、下の菊の図案としてある所が、もーう濃い濃い水色で空色なんです。それを私は御心眼に頂いてから、あの菊正宗という所がもう燦然と光を放っておる所を頂いた。下がもう広々とした大海原のあの水の濃いさに、あれを頂くのです、ね。
燦然とした金光様のお徳。そして海原の様な広い深い、お恵みとおかげを頂いて、心の中に広い大きな心を、頂かせてもらうということ。まぁ例えば、今私が申しましたような程度のことでです、神様が分からせて頂いても、神様の思いの深さ広さ、または自分心にその信心の深さ広さを、体得することはそれぎりでいで、以上は頂かれないのです。私は椛目で皆さんが、合言葉の様に言うておられる、限りなく、もう本気で、美しゅうならせて頂きましょうやと。
もうお互い、本気で美しゅうなるより以外はないですよと。言うておる、いわば椛目のキャッチフレーズであるけれども、果たして本気でその美しゅうなる事に限りなくそれを究めて、そこに焦点を置いていっておる人が幾人あるだろうかと。ここん所を究めていかずしては決して神様の思いの深さ広さ、もうより深さ広さを分かる事は出来ん。自分の心の上に広さ深さを頂いて行く事はできんのです。
限りなく美しゅうならせて頂くという事、本気で美しゅうなるぞという事は本気で改まるぞという事であり、本気でその問題によって一つ磨かせて頂くぞという気になる事であり、ここに焦点を置かなければです、今ただ今申しました最後の手紙の事ですけれども、ね。その程度には神様を信じる事が出来る。それ以上は出来ないでしょうが。椛目のほとんどの方がそうではなかろうかと。
本気で、さぁ今日も限りなく美しゅうならせて頂くぞという事に、果たして焦点を置いておる人が幾人あるだろうか。ここにです、ね。止むに止まれんような思いで限りなく美しゅうなりたいんだというですね、ところには実意を欠くわけには参りません。ね。一切の事柄の中からです、いよいよ自分の限りない美しさというものを、に磨きをかけていかなければな、おられません。座右の銘とかね。キャッチフレーズとかとね。自分はいつもこれを見てからと。それは見ておるだけの事である。ね。
ある先生が、四神様の御時代に御本部にお参りされてから、「金光様、私は自分の居間に御神戒をずっと書いてから額に入れて、それを朝晩眺めさせて頂いております」と言うて申し上げた時に四神様が仰った。「あれはね、額に入れてからあれは眺めるもんじゃない」と仰った。ね。あの御神戒の一つ一つがです、自分の物にならせて頂いて、箇条書きに書いてもこれはもう出来た。これは出来たと一つ一つ消していく物じゃと仰ったそうです。その位な私は、実行力を持ってですたい。
限りなく美しゅうならせて頂こうやと。もうこの事になったらですね、もう、一切の問題は解決するんですよ、実は。ね。そこに初めて神様のいよいよ思いの深さ広さに触れる事ができ、同時に触れる事が出来るという事はまた自分自身の心の中にいよいよ限りなく美しい、同時に広い深い信心を、自分の身に付けていく事が出来るという事をです、一つ思い込ませて頂かなければいけんと思うですねぇ。
おかげ頂きました。